このブログでは、吃音者であり、オーストリアに共働き夫婦と子2人の4人家族で住む自然科学を専門とする科学者Maromisoの日々考える脳みその中身を、政治にジェンダー問題から芸能まで雑多なトピックについてダダ漏れにしようと思います。

キズナアイに続いてプリキュアのフィギュアがツイッター界隈で話題だ。

これはツイッターのとあるアカウントで、
4歳の子供のためにプリキュアのフィギュアを買ったら、
スカートの中に下着まで作られている事に驚き、
調べたみたら、それを喜ぶ男達がいる事も分かり、
子供のおもちゃが性的消費の対象となっているからまずい、
といった内容の呟きをした事から始まっている。

これには賛否両論あるようであるが、
別のアカウントで「下から覗くのが悪い」といった内容の呟きがなされ、
これについての議論も巻き起こるなど、事態は混沌としている。

今回はこの問題について考察してみたい。

まず一つ目の論点として、
「下着が覗けるフィギュアの是非」であるが、
この事自体は問題ないと筆者は考える。

ただ、性的な目で見る人ももちろんいる訳で、
「性的な対象となる商品として」「社会に公に広がってしまう」
その場合には問題になり得るだろう。
しかし、大人の中で個人で楽しむのにとどまるのであれば、
社会では許容される範囲であると考える。

では、そのフィギュアが未成年をモデルとしている場合はどうだろうか。
筆者はこの場合も基本的には問題はないと考える。
これが問題となるのも先程と同様に、
「性的な対象となる商品として」「社会に公に広がってしまう」場合に限ると考える。
ただしこの場合は先程の場合に加えて、
「未成年が性的な対象となる事を社会が許容する」
という恐れも加わるため、より慎重に扱われる事案ではあるだろう。
しかし繰り返すが、社会に広がる訳でなければ大きな問題はないと考える。

ではこれらを踏まえて、今回のプリキュアのフィギュアの場合について考える。

まず、今回の騒動では最初に問題提起したアカウントで紹介されたように、
「このフィギュアを性的な目で見ている人が一定数いる」
この事実は明らかである。

それを大会社であるバンダイが、人気アニメの商品として売り出している訳であるから、
「未成年が性的な対象となる商品」が「社会に公に広がってしまう」恐れがあるので、
社会的に問題があるという意見が出るのはおかしな事ではないだろう。

しかし、このツイッターの1部に見られる性的な対象と見る人が、
日本においてどの程度の割合でいるかは定かでないため、
上記の「未成年が性的な対象となる商品」の部分の広域性は未知であるので、
この視点において本当に社会的に問題となりえるかはグレーであると筆者は考える。

つまり、大人の世界の中の話に限れば、この商品については、
この商品をどの程度の割合の人が性的な対象と見るかによって、

では、最初に問題提起されたもう1点の、
「売られている物が子供のおもちゃ」である点についてはどうであろうか。

一般に、「子供のおもちゃとして売って問題となる場合」というのは、
「子供の教育上よくない場合」であろう。

では、このプリキュアのフィギュアが子供の教育上よくない点はあるだろうか。

まず思いつくのは、
「このフィギュアを性的な目で見ている人が一定数」が子供の目に入る事だろう。
これは単純に、それを目にした子供に、
「スカートを履いた女の子は性的な対象になる」事を直接的に教えるので、
教育上よくない事は明らかであろう。

しかしこの点は、先程も議論したように、
「この商品をどの程度の割合の人が性的な対象と見るか」
ここが定かでないので、この問題がどれ程広域性を持つかは今の所未知であり、
現段階では、アウトにもセーフにもなりえると考える。

ここで、1点確認すると、とても当たり前の話だが、
「未成年の下着を覗く」という行為は、現実世界ではアウトである。

では、覗く事ができる仕様のこのフィギュアはどうだろう。
ツイッターにあったように「覗かなければいい」という意見もあるだろう。
確かに見たくなければ覗かなければいい訳である。

しかし、これは意思のないフィギュアであるため、
「覗こうと思えば誰でも覗ける」ことも事実である。

この事実は、「物理的にこのフィギュアを逆さまにできるか」
に近いものであり、それ自体に異論のある人はあまりいないであろうし、
子供であっても、それをしたいと思うかとは別に、
このフィギュアを見てこの事実には気づくだろう。

この事実を、まだ社会的に良い悪いの判断のつかない子供の視点から考えてみると、
このフィギュアは、女の子に対しては、
「未成年の女の子のスカートは覗きたい人がいるなら覗かれうるもの」
同様に、男の子に対しては、
「未成年の女の子のスカートは覗きたいなら覗けるもの」
という事を教えてしまう恐れがあるのではないだろうか。
スカートを履いたフィギュアの下着が誰でも覗ける仕様になっている訳でから、
子供にそのような印象を与える可能性がある事は容易に想像がつくのではないか。

フィギュアと現実の女の子は違う訳だからそんな勘違いする子供はいない。
そういう意見もあるかもしれないが、
大人であってもこのフィギュアの下着に喜ぶ人がいる中で、
例えば男の子がこのフィギュアを何の説明もなしにもらった時に、
こうやって覗けるフィギュアがあるんだから、
女の子のスカートの中を覗く事ってそんなに悪いことではないのかな、
と思ってしまうという可能性は突拍子もない想像ではないだろう。

筆者は、ここがこのフィギュアの問題であると考える。

現代の性の倫理では、
性犯罪に対しては被害者側が自衛すべき、という過去の倫理は間違いであると理解され、
性犯罪は一にも二にも犯罪を犯す加害者が悪い、という理解である。

これはスカートを覗くという行為においてももちろん当てはまるので、
子供には「何があってもスカートは覗いてはいけない」と教えなければいけない。
しかし、このフィギュアが植え付けうる、
「スカートは覗かれうるものであり覗けるもの」
という考えが現在の倫理観にそぐわない事はお分かり頂けるであろう。

よくテレビのテロップで「スタッフが後でおいしく食べました」
みたいな注意書きが流れるように、
「このフィギュアの下着は覗けるけど本当の女の子のスカートは覗いちゃだめだよ」
みたいな注意書きをつける事で、この問題を低減できるかもしれないが、
それをするなら最初から覗ける仕様にする必要はなかったように思う。

ちょっとしたお洒落なスパッツ的なものを履かせるだけでよかったのに、
なぜそれをしなかったのかもとても疑問である。


最後に、昔からこの程度の子供向けおもちゃは多くあった
という意見もあると思うので、それについて述べておくと、
筆者はいわゆるアラフォー世代であるが、
筆者が子供の頃は「女の子のスカートめくり」といういたずらは、
「ピンポンダッシュ」と同程度の社会的に「軽め」の扱いのいたずらであった。

しかし、時代は進み世界の倫理観が大きく前進し、
今では未成年の性を守る事の大事さが理解され始め、
例えば、もし現在私の子供の通うオーストリアの学校で、
「女の子のスカートめくり」が起ころうものなら、
親が呼び出されるレベルではなく学校を挙げての大問題になりえる。

そのように時代は変化しているため、
例えば、このプリキュアのフィギュアも昔であれば、
男の子が「これパンツ見えてるぜー」と茶化す、
みたいなだけで社会問題になどには全くならなかったと考えられるが、
現在では、上記の考察のように問題になりえる訳である。

面倒な時代になったと思う人も多いかもしれないが、
例えば「スカートめくり」が軽めの扱いになっていたように、
これまでの差別の歴史で女性やマイノリティの方々が感じて来た生き辛さは、
面倒などというレベルではなく極めて大きなものだったのであり、
それをなくす事が何よりも大事であると筆者は考える。

皆さんはどう考えるだろうか。

2018年のノーベル医学・生理学賞を本庶佑さんが受賞したが、
現在この受賞に関して思わぬ事が話題となっている。

NHKの公式HPで「まるわかりノーベル賞」として、
いわゆる「萌え絵」のキズナアイというキャラクターが、
男性の教え手に対して受賞内容などを教えてもらう聞き手になる
という形式の解説サイトをオープンしたのだ。

これをきっかけに筆者が最近始めたツイッター界隈含めネット上でその是非が議論となっている。

議論の主な論点は概ね「女性差別になっていないか」という点だろう。

その中でも筆者は、具体的な論点は2つ(おそらく相互に関連する)あると考える。
1つ目は、「萌え絵そのものが社会的に許容されるものか」であり、
2つ目は、「萌え絵キャラクター(女性)が男性に教わる形式に
なっている点が、女性のジェンダーロールを演じている点」である。

ここでは、なるべく公正にこれらの問題を考えてみたい。

まず、この「萌え絵」問題について考える時に筆者が思い出すのは、
約15年程前、筆者が大学院生時代に初めて2か月間海外(アラスカ大学)
に行った際に仲良くなった現地の大学院生John君だ。
彼は、いわゆるオタクで、コンピュータに詳しく、
数値シミュレーションを専門とする筆者と一緒に作業をする機会が多かった。
そんな彼がある日「日本人が最近開発したBESM(big eyes, small mouth)はすごいね」
といって目をキラつかせて「萌え絵」の走りのようないくつかの絵を見せてくれた。
「アラスカに似ていると聞いた日本の北海道に住んで日本人と結婚したい。」
彼は同時にそんな事も話していた。
私は当時はあまり彼の言う言葉の意味を分からなかったが、
いやゆる「萌え絵」というのはこの辺りの時期から発展していったのだと思う。

萌え絵の大きな特徴の一つはJohn君の言うようにBESMであろう。
これはデフォルメされた漫画のキャラクターでも使われる特徴で、
言ってみれば「猫」的なかわいさがあるものだと思う。
なのでBESMは男性だけでなく女性にも一定の人気がある。
ここまでは差別が云々という問題ではないと考える。

しかし「萌え絵」にはBESMに加えて、
胸の強調や露出の多い服装などの「性的な強調」が加わっている。
問題になっているキズナアイしかりである。

ここまでを踏まえて、もう1度問題を整理すると、
この話題で議論すべきなのは、
「性的な強調を伴う萌え絵の表現は社会的にOKか」
「そのようなキャラクターが聞き手に回り女性のジェンダーロールを演じる事はOKか」
の2点となると考える。

ここで、冒頭のBESMの話題に戻るが、
BESMの最大の特徴は、文字通り大きな目と小さな口だが、
この大きな目が「人を信じる」印象を与え、
小さな口は、抗議しない「無抵抗」な印象を与える、
つまり、猫的なかわいさに加えて、
男性に対しては、現実の女性の平均に比べ「従順」な印象を与える、
と考えるのは飛躍しすぎだろうか。
メイドの服装などが多く見られるのもその現れではないだろうか。

多少強引な議論だが、ここから先は、
「BESMの女性の絵は現実の女性の平均に比べ従順な印象を与える」
この「仮定」の下で議論を進める。

筆者は、冒頭のオタクであるJohn君がBESMをすごいと感じたのも
この仮定についてだと推測する。
女性に何かコンプレックスを抱える男性が、
従順さを感じさせるBESMの絵に魅力を感じるのはとても自然な事だと思うし、
それを悪いともやめさせようと思わない。

しかし、この仮定が正しいとすると、
「萌え絵」を個人で楽しむのでなく社会に広める事は、
まず単純に「女性は従順である」という女性像を広める事に繋がるので、
性的云々を除いても差別の助長に繋がるだろう。
さらに同様のロジックで2点目の議論ポイントにおいても問題である。
「従順な女性」が「男性に教えてもらう聞き役に回る」という表現は、
従来の女性のジェンダーロールを強調することに繋がってしまうからだ。

そして筆者は、上記の仮定が正しいとすると、
1点目の議論ポイントも問題であると考える。
なぜなら、この仮定により「萌え絵」は、
「現実の平均に比べ従順な女性が性的な強調をしている」ことになるので、
すなわち、
「男性の性的要求に従順に答える事を期待させる表現」になりえるからである。

あまり詳しく想像したくないが、例えば人によっては、
性的に強調された恰好を男性に強要されても嫌がらないキャラクターに感じるかもしれないし、
性的な要求を従順に受け入れる気があるような表現、と感じるかもしれない。

いずれにしても、「従順な女性」の「性的な強調」を伴う表現について、
「基本的に従順だが男性からの性的な要求に対してだけは従順ではない」
と思わせる表現であると解釈するより、
「男性からの性的な要求に対しても従順」
と思わせるための表現と解釈する方が自然であると考える。

(この解釈については議論の余地があると思うが、
「萌え絵」の多くが甘えるような、または、物欲しそうな表情をしている事も
この解釈を支持していると考える。
実際に「萌え絵」に魅力を感じる男性もこの解釈には同意し、
まさにこの点を気に入っているのではないだろうか。)

上記のように現実ではまず女性が従順という固定観念こそが問題な訳だが、
仮に例え従順そうに振る舞う女性がいたとしても、
その女性が性にも従順ある理由は何もなく、
何もかもが間違いである事は留意したいが、
筆者は、John君が日本に来て日本人と結婚したい
(ここでの結婚の希望は性行為への欲を含むと考える)
と感じたのも、日本には性も含めて従順な女性が多くいるに違いないと、
「萌え絵」の影響による非現実的な誤解をしてしまったからであると考える。
John君の発言は、「萌え絵」にはそういうすり込みをしてしまう力がある
一つの証拠ではないだろうか。

このように、「性的な強調」を伴う「萌え絵」は、
「女性が男性の性的要求に答える、また性的欲求を満足させるために存在する」
これを強調する表現になってしまっている、つまり、
「女性は、自らの欲を満たす対象として扱ってもよい存在である」
という差別を助長する表現になってしまっている訳である。

まとめると、筆者は、「萌え絵」が聞き手に回る今回の表現は、
「BESMの女性の絵は現実の女性の平均に比べ従順な印象を与える」とした仮定が正しい限りは、
「社会的かつ性的両面における女性のジェンダーロールを強調する表現」となっているため、
これを社会に公に公開する事は控えるべきだと考える。

注意したいが、もちろん「萌え絵」を個人的に楽しむ事は問題はない。
「萌え絵」を取り締まるような法律などもちろんなく違法でも何でもない。
筆者はただ、「差別のない社会」を目指すという観点からは、
上記のように、今回NHKがしているように、
「聞き手」に回る「萌え絵」キャラクターを社会に広める事は控えるべきであると考える。

また最後にもう1点加えると、
このような議論に対して「それくらいで過敏になりすぎではないか」
という意見は必ずある訳だが、
筆者は、このブログで何度か述べているように、
現在は差別社会から反差別社会への過渡期であり、
だからこそ「過敏」にならないといけないのだと考えている。

例えば、アジア人を示すつり目のジェスチャーを誰かがしたとして、
バリバリに差別があるアジア人に人権などない社会なら、
差別する側が絶対な訳で社会的に問題は起こらず、
逆にもし差別が全くない社会なのであれば、
その社会ではつり目に何のネガティブな要素がないため、
そもそも誰も気に留めないので何の問題ないが、
差別の残る過渡期の社会では、差別する強者側だけでなく差別される弱者側も人権のある中で、
強者と弱者を強調する表現となり、その差を広げる事に繋がるのでアウトである。
過渡期というのは、そう言う神経質な時期である。
なので「それくらい」と言えるのは、差別がなくなった後の話である訳で、
過渡期である現在は残念ながら上記の議論のように「過敏」にならねばいけない訳である。
差別がなくなった社会を気取りたい気持ちも分かるが、
「過渡期」である現実をしっかり意識して行かなければいけない。

皆さんはどう思うだろうか。

「コントロールされている」とされていた、
「浄化されたはずの汚染水約89万トンのうち約8割超が基準を上回っていた」ことが
「住民側の指摘よって明かされた」
という2018年9月28日の恐ろしいニュース(「」部分を記事より引用)を目にした。
この衝撃の事実はまた例によって隠されようとしていた訳である。

実はこれらは一部で、本当は浄化前の汚染水が海に大量に流れ続けていた、
と次のニュースで言われても、信じられない、とはもうならない状況である。

筆者ははっきりとこのような事態が起こる「原発に反対」である。
例え仮に電力が足りなかったとしてでもある。
単純に怖いというのもあるが、科学者の視点からも反対である。

筆者の専門は宇宙関係であり核物理ではない。
しかし、そういう問題ではなく現代における科学研究の行われ方を見る限り、
原発を現在の人類が運用するのは無理がありすぎると考える。

ニュートンが引力の研究していた頃の古典科学は、
ごく限られた一部の人によって進められており、
それらの専門家が数学者であり物理学者であり哲学者でもあるという事は珍しくなかった。
しかしその後「研究分野の細分化」が進み、
現代の科学者一人一人は、かなり細かい専門分野の研究をしている。

そのように細分化された現代科学の最大の課題の1つは、
分野間を横断した研究を如何に進めるかであり、この点を何とかしようと、
分野間を横断する研究に研究費が多く当たるようなシステムが作られたりしているが、
結果としてあまりうまく行っていないのが現状である。

例えば私の研究している宇宙関係の分野では、
直接宇宙空間を再現して実験する事が難しいので、
主に望遠鏡や人工衛星による観測と数値シミュレーションを連携させて研究が進められている。
しかし、例え同じ現象を対象にした研究であっても、
観測を専門とする研究者とシミュレーションを専門とする研究者間で、
それぞれの専門性を互いに理解する事の難しさから連携が機能しないことが多々ある。

このように、とても近い専門分野間であっても連携する事は難しい訳である。
そしてそれはもちろん核物理の分野も例外ではない。

原子炉内で起こる核物理は多岐に渡りとても複雑である。
その複雑な物理を正確に理解しなければ原発を安全に作る事はできない。
しかし、上記の理由から関係する物理学者同士がうまく連携し
原子炉内で起こる様々な物理を全て完璧に理解するのが極めて難しいという事は、
分野外の筆者であっても容易に想像できる。

そして最大の問題は、そんな中で、
上記のように容易ではない物理学者間の連携だけなく、
原子炉を設計する工学者、
実際に原子炉を作る業者、
原子炉含め発電所を運用する電力会社、
原発事業を統括する政治家、
日本であれば、地震等災害関係の研究者、
などなど、
非常に幅広いレイヤー間の連携が成立しなければ原発を安全に運用する事はできない点である。

私には、このような超多分野間の完璧な連携が現在の人類に実現できるとは到底思えない。

しかし現実に原発が存在するという事実は、
「人類にはそれを実現できる力があると原発開発に携わる全てのレイヤーの人が信じている」
という事を意味しているとは考えにくいので、
「少なくとも1つ以上のレイヤーの人は実現できないと認識しながら目をつぶっている」
という事を意味すると考えるのが妥当であろう。

私は、以上の理由から、
実際は危険と認識しながらおそらくは政治的な理由で進められるこの事業を
信じる事はできないため「反対」である。

そしてもう1点最後に大前提を確認するが、
原発は福島でもチェルノブイリでも分かるように、
事故を起こしたら絶対にいけない類のものである。
それは単純に、
(もう実はそういう実態になっているしれないが、)
取り返しのつかない事態へ繋がってしまう可能性があるからである。

なぜか、

少しでも物理をかじっている研究者なら当たり前だが、
それは、核反応が制御できなくなった場合に、
そこで解放される巨大なエネルギーを正確に算出する事は、
ほぼ不可能だからである。

例えば、私も以前働いていたことがある某国の国立研究所で、
第二次大戦中に原爆が作られその初めての爆発実験をする際、
原爆の開発に携わった研究者達がその爆発の威力の賭けをしていた、
という有名な話がある(それも下劣な話だ)。
そしてその中には1つの州が吹き飛ぶと賭けていた研究者もいるなど、
核反応が暴走した際にどこまでエネルギーが解放されるかを正確に掴む事はとても難しい。

このように、もし事故が起こったらどうなるか分からない物を、
事故の可能性がゼロでない状態で量産するという事自体、常軌を逸している。

車だってちょっとでも事故の可能性があればすぐリコールがかかるし、
飛行機だって少しでも不安があったら飛び立つ事はない。
乗りたい人がいるか、などの実用面より危険の回避が優先されるからだ。
なのに原発は、事故の可能性がどこにあるかも分からない上に、
事故が起こったらどうなるかも分からない状態で、
電気が足りない(車の場合なら乗りたい人がいる)などの実用面の理由を優先させて、
かなりの数が運用されている。なんという矛盾だろうか。
その矛盾の裏に何かネガティブな理由がある事は容易に想像がつくだろう。

長くなってしまったが、
以上のような考えから私には原発に反対しない理由を見つける方が難しい。
皆さんはどう思うだろうか。

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